皇帝フリードリッヒ2世の生涯

第3章 皇帝として
ローマを訪れて法王の手から皇帝冠を授けられることは歴代の神聖ローマ帝国皇帝にとっては非常に重要な儀式にならざるをえなかった。
1220年ローマの法王からの招聘が届く
ローマでの戴冠
8年前のドイツ行とは違って古代ローマ時代からある幹線道路を堂々たる行軍で南下し皇帝としてイタリアに戻ってきた。この時彼は25歳になっていた。
ローマでの戴冠式は、1220年11月20日に挙行された。
ローマをを半周して法王の待つヴァチカンに向かうフリードリッヒは華麗な服で白馬を駆るという姿で沿道の大歓迎の中をすすんだ。
ミサの後法王のてから帝冠を受け、キリスト教会の守護者になる事、十字軍の遠征に行くこと、異端者を撲滅することを誓った。
十字軍の遠征に行くことを誓った直後、彼ははやくも十字軍遠征のさらなる延期を願い出た
法治国家への第一歩
フリードリッヒの領国はアルプスの北と南に分かれていた。フリードリッヒは異なるやり方で統治しようとしていた。つまり近代的な君主国への移行:法治国家設立の構想があった
法治国家への第一歩
封建制下での領主は、自領内でたいがいの事を自治で片づけるからこそ、封建領主なのである。そのかれらから既得権を取り上げて君主制の国家に移行するには、官僚制の樹立が欠かせない。官僚の育成の為に大学設立が不可欠になってくる。
カプア憲章
1220年カプアで落ち合った皇帝と法学者ロフレドは法制度の骨格創りを始めていた。
後に「カプア憲章」の名で発表された
26歳の皇帝は王国の各地方を担当する知事や司法・警察などの長官を任命したのだが、任命されたのは封建諸侯たちであった。
1221年(26歳)1222年(27歳)この2年間はフリードリッヒにとって席の温まる暇もないくらいに南イタリアと
シチリア島を巡行してまわった。30年もの長きに渡って無政府状態をよいことに勝手に領地を増やしていた諸侯からそれを取り上げて王領に戻す為に成された巡行である。
南の国プーリア
ドイツにいた頃の彼は、ドイツ人から「プーリアの少年」と呼ばれていた。しかし彼はプーリアを見たことがなかった。幼少期を過ごしたシチリアからそのままドイツに発っていたからである。この時代のヨーロッパ人にとって、プーリアは南伊太利全体を意味していた。
北ヨーロッパの人々にとって聖地であるパレスチナに発つ巡礼者もアルプスを越えてイタリアに入り、プーリア地方の南端にあるブリンディシまで来てそこから船に乗っていた。
という訳で「プーリア」は現代よりも中世の方が知名度がたかかった。このプーリアに足を踏み入れたフリードリッヒは巡行していくうちにすっかり魅了されてしまった。シチリア王国の中での南イタリアの地位向上である。
ナポリに大学を創設し、サレルノの医学校を強化し、プーリア地方の海港都市を整備し、
フォッジアに王宮を建てた。
各地を移動して周っていたこの時期皇后のコンスタンツァをマラリアで失っている。39歳であった
サラセン問題
多様な歴史の変遷を経て、フリードリッヒが幼年期を過ごしたシチリアはキリスト教とイスラム教という一神教が敵視し合っていた中世である。が、ギリシャ人・ラテン人・アラブ人が共存していた。
この三民族の共生は北ヨーロッパから来て聖地に向かう巡礼の目には非キリスト教的だった。
イスラム教徒がヨーロッパのキリスト教徒をすべて「フランク人」、と呼んでいた一方で、ヨーロッパのキリスト教徒はイスラム教徒を一括りにして「サラセン人」と呼んでいた
それでこれらサラセン人の不満組の移転先と決まったのが王宮建設中だったフォッジオから、わずか離れたルチェラに移住させたのである
二十八歳になっていた皇帝はルチアに移住させたサラセン人に対して完璧な信仰の自由を認めた
ルチエラに住むアラブ人だけでなく、シチリアに住む他のアラブ人たちによる反乱は二度と起こらなくなった
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by maryroserose | 2016-02-12 12:04 | 読書

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